『イニシェリン島の精霊』感想(ネタバレあり)

 

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 マーティン・マクドナー監督『イニシェリン島の精霊』を観た。1923年アイルランドのイニシェリン島が舞台で、本土で行われている内戦を背景としながら2人の男の仲違いを静かにかつスリリングに描いた作品。

 誰と付き合うかに関して選択の余地がほとんどない激狭コミュニティ(家族含む)のなかで、特定の人と距離をとりたくなったときにどうするのが正しいのか。もちろん絶対の答えなどははないんだけど絶対に間違った行動はあり、後者を選び続けてえらいことになる男2人の話。

 

(以下ネタバレあり)


 コルムの言い分(「限りある人生において、パードリックとの目的のない会話ではなく、思考や作曲などもっと有意義なことに時間を使いたい」)自体は否定できないし、その望みを叶えようとするのを誰も妨げるべきではない。しかし、だからといってパードリックを無為に傷つけるようなコルムのやり方は決して褒められたものではないだろう。パードリック視点では親友と思ってた人物にある日突然無視されて混乱し、コルムの話を飲み込めないのは当然だろう。また、コルムのやり方は2人の関係のみならず、コミュニティ全体でのパードリックの立場も居心地悪いものにしてしまうものであるという点で、配慮を著しく欠いている。

 ただ、果たしてコルムはパードリックの気持ちや立場をどこまで慮る筋合いがあるのかとここで考えてしまう。

 もちろん「どこまで」と明確な線引きをすることは原理的に不可能にしても、どうしてこの状況で嫌がっている側のコルムが心理的コストを支払わなければならないのかはっきりとわからない。他者に対する「思いやり」はとても大切なことだと思うが、そのような目に見えない漠然とした規範が暗黙のルールとして存在する社会は息苦しいし、第三者が軽々しく求めていいものでもない気がする。それでも、コルムが実際にやったようなやり方は無用にパードリックを傷つける悪手だし……と最初に戻る堂々巡りである。

 こうした答えのない問題を、登場人物どちらにも感情移入できるようにしながら「明らかに何かが間違っている」と感じさせる作劇は見事だ。そして、この状況が戦争(さらに言えば「内戦」)とメタフォリカルにシンクロする構成もほれぼれする。パードリックとコルムの仲違いと戦争の類似という点では、後述の「男性性」の問題も絡んでくると思う。

 

 教養を重んじ文化的娯楽を愛するコルムと対比されるのがパードリックの妹シボーンである。彼女も趣味が読書で、(物語の後半でわかるように)図書館での仕事を手に入れられるほどの技能を持っている。にも関わらず、狭くて退屈な島で兄の世話をしながら変わり映えのしない生活を送ることに焦りや葛藤を感じている。彼女はパードリックの相談に乗ったりコルムとの間を取り持とうとしたり、コミュニケーションにおける「思いやり」「気配り」といったケアの能力を持っているのだけど、これはジェンダー的には「女性らしさ」に属するものであり、この能力がパードリックとコルム、パードリックとシボーンの関係性の結果の違いと絡んでくる。

 図書館に仕事の口を見つけ、本土に渡ることを決めたとき、シボーンはできるだけパードリックを刺激しないようなやり方を選んでそのことを伝えているし、パードリックの反応も(やや動揺は見られるものの)比較的落ち着いたものである。これと比べると、パードリックの内面をわざわざ深く傷つけるようなコルムのやり方が、その後の修復不可能なこじれを導いたことも納得できる。コルムの「初手」において上述のような「気配り」がまったく欠けていたことや、パードリックとコルムがお互い意地を張り合って「引っ込み」がつかなくなるあたりに、自他の感情に無関心になりがちな「男らしさ」との関連を見ることができるかもしれない。このような「男らしさ」とコミュニケーションの問題は男性中心主義的な権力が起こす「戦争」とも結びつけることが可能だとこの映画は示唆しているのだと思う。


 退屈であることは何も悪いことではないし、パードリックが劇中の慣習などに照らし合わせて「良い人」であったこともある程度認められるだろう。しかし、彼が周囲の人間から「退屈」であると突きつけられたとき、真実だったはずの「良い人」であることすらボロボロと崩れていくのがなんとも悲しいし、やるせない。他人に認められていないとわかったときに、他者を傷つけようとしてしまう。あるいは「自分はこいつよりマシだ」といった考え方で自らを保とうとする(パードリックの場合はドミニク)。自尊心の欠如と他者との関係性の崩壊の描写もおもしろい。

 ドミニクもとてもおもしろいキャラクターである。初登場時から何かしら人をイラつかせるような、でも悪気はない不思議な愛嬌をもった人物をバリー・コーガンが見事に演じている。彼もまた簡単には離脱することができないコミュニティ(家族)において暴力を受けており、他者に自分の気持ちを伝えることが正直言ってとても下手である。夕食でシボーンに好意を伝えようとする場面など酷かった。彼は結局シボーンに好意を伝えるもののフラれてしまう。そしてラストでは湖で水死体となっているところで終わる。どのような経緯で彼が死に至ったのかは不明だが、もしかしたら自殺かもしれないし、父親の暴力やもしかしたらシボーンにフラれたことが原因かもしれない、と深く考えこんでしまう。この映画では「退屈」な人間であるパードリックの悩みや苦しみが切実に描かれており、どうしてドミニクにそれがないと言えるだろうか。

 

 他にも動物の表象もよかった。パードリックがロバのジェニーと強い絆で結ばれており、ジェニーが事故で亡くなったことによりスイッチが入るところ。一貫してパードリックに対して強硬的だったコルムもこれに関しては申し訳なさを感じており、神父に懺悔もする。しかし、神父はロバの死に対して「神がそんなこと気にするか?」と答えるのみである。神から見捨てられた動物や人間の感情がいかに大きな暴力を生み出しうるか。

 最後にあまり関係ない話だが、コリン・ファレルバリー・コーガンが並んでいると『聖なる鹿殺し』を思い出して気が気じゃなかった。