『オッペンハイマー』感想

 クリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』を観た。率直な感想として、思っていたより素直におもしろい映画だと思ったし、長さを感じなかった。じゃあ題材に対して「素直におもしろい」でいいのかと言われれば、この映画のスタンス、視点の置き方としては一貫しているしこれがベストなのかもしれないと思うが、そもそものスタンス自体がズレているという批判にもうなずける。以下詳しい感想。

 自分の行為、創造物が周囲の人間によって好き勝手に解釈され、扱われる世界で、自分が自分でなくなっていく感覚を描いていると思った。原爆を生み出し、使用された結果に罪悪感を抱いて懊悩するも、周りは英雄として評価してくる。若かりし頃に興味本位から関係を持っていただけなのに、戦後になって共産主義のスパイ呼ばわりされる。それは悲劇でもあるし、彼がナイーブすぎるだけでもある。彼の内側/頭の中にある宇宙(何度もイメージとして映像が挿入される)とは無縁の政治が、悲劇の主人公としての彼の自意識を引き裂いていく。
 最後にオッペンハイマーフェルミ賞を授けられるのは、受賞によって彼の存在に「区切り」をつけ、ひとりの人間から「歴史」へと移行させるための儀式なんだろう。それはオッペンハイマー自身がアインシュタインにしたことでもある。こういったような、自分が生み出したものが自分の物じゃなくなり、意図とは無縁に扱われる、なのに創造行為をやめられない業、みたいなところに映画監督としてのノーランを重ねてしまう。
 ジーン・タトニックの死でも、そんなの全く関係ないもしれないのに、自分がその原因なのではないかとオッペンハイマーは動揺する。オッペンハイマーの想像としてジーンの死が描かれるシーンでは、自殺と他殺両方の説があるからそれぞれのシーンが入っているらしいが、想像するオッペンハイマーにとっては頭を抑える手は自分の手なのだろう。このへんのジーン周りの描写について、オッペンハイマーの主観を通して彼のロマンティックかつナイーブな性質を描いているっていう意味では一貫しているとも言えるし、映画としてジーンというキャラを「主人公男性を翻弄しつつ最後には死ぬ謎多き女」の陳腐な役回りにしているとも言える。

 

 

【2/26】日向坂46ダイアリー#38

 昨日の『日向坂で会いましょう』を見て感じたことをつらつらと書いてみる。とくに大作の記事というのでもなく、ツイートの延長くらいの感じで。

 まず、11thシングルで選抜制が導入されることに関しては、正直なところあまり驚かなかったし、ショックも少なかった。多くの人が言っているように、いずれ来るんだろなと思っていたから。だけど、自分が選抜制の導入を既定路線として受け入れていた(諦めていた)ことにふと違和感を持った。別にこのまま「全員選抜」として28人で表題曲をパフォーマンスすることだって可能じゃないのかと。もちろん、テレビ番組の出演などに関していろいろなハードルがあることもわかるが、テレビ側、「運営側」の都合を消費者でもあるファンが自明のこととして受け入れるべきだという風潮には納得したくない。我々は「歌番組で全員の姿を見たい」と主張する権利があると思う。選抜制にも様々な利点があることを理解した上で「利点を両取りできる方法を考えろ」と求めることができると思う。金儲けや企業の都合を無視して、ファンが喜ぶグループ活動を見せろと。

 そもそも、「グループが強くなるためには選抜制の導入と、それに伴う競争が必要」みたいな考え方もよく分からない。以前に森本茉莉がブログで「競争心はなくても向上心はあります」(2022.9.21)と書いていたのだが、まさにその通りだと思う。選抜制を導入しなくても個人のスキルは高められると思うし、メンバーはそのような気持ちを抱くだろう。なにかにつけ競争抜きで人は成長できないと考えるのは、とてもマッチョ的で有害な考えだとすら思う。

 選抜制が導入されることは決定なので、それによって応援をやめたりするつもりは特にない。ただ、ファンが「運営」の考えや都合を忖度して何かを受け入れたり諦めたりする風潮には反対だし、そんなことないと言い続けたい。

 また、選抜制導入に反対する意見として、「全員選抜が日向坂のアイデンティティだったのに、失われてしまう」といった内容もチラホラ見るが、これはこれでイマイチ腑に落ちない。僕は、アイデンティティというものは人間の生活やグループの活動といったプロセスからパフォーマティブに作られていくんじゃないかと思っているので、「全員選抜」といったカッコつきのアイデンティティが先にあるような考え方はあまり納得できない。日向坂が選抜制を導入するならそれはそれでグループのアイデンティティのひとつとして刻まれるものだと思うで、選抜制導入をもってして「アイデンティティと違う」と言うのは本末転倒というか。

 あと、フォーメーション発表後のインタビューで小坂菜緒が2023年を「あまりうまくいかなかった一年」と言っていたのが印象的だった。そんなにハッキリ言う?と思って。そもそも去年が日向坂としてうまくいかなかったみたいな風潮ってどこから来たのだろう。2022年がグループにとっての節目で、大きくて印象的なイベントがあったからその反動か。確かにリリースペースの遅さやケヤフェスの中止、とどめとして紅白に出演しなかったことでもろもろ「うーん」という雰囲気は醸成されていたか。個人的にはやっぱりリリースした曲の印象があまりにも薄かったと思う。端的に言えばヒット曲を作れなかった。逆に言うと、ヒット曲さえあればいくらでも巻き返せるんだろう。2024年の日向坂46に、めちゃくちゃ期待しています。

ボーン・イン・ザ・エアジョーダン~『AIR/エア』感想

 『AIR/エア』を観た。誰もが知る「エア・ジョーダン」誕生にまつわる物語を「負け犬たちのワンスアゲインもの」的な語り口で描いており、それ自体とても良く出来ているのだけど、個人的には「アメリカン・ドリーム」に対する眼差し、全体のちょっとしたドライなトーンがとても良かった。エア・ジョーダンはバスケットボールシューズのみならず、業界及び社会全体に革命を起こしたわけだけど、そこを描くときに「変えてやったぜ!」と「変えてしまった」両方の感覚がある映画だと思う。

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 マイケル/エア・ジョーダンが体現する「アメリカン・ドリーム」の偉大さ、美しさを本気で信じてそのために身をささげた人間たちの物語をとてもエモーショナルにカタルシスたっぷりに描いている一方、膨れ上がっていく「アメリカン・ドリーム」が置き去りにしていくものたちへの眼差しもある。それはブルース・スプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・USA』———「アメリカに生まれたぜ万歳」な曲かと思いきや仕事に就けないベトナム帰還兵の歌だった———の使われ方からもわかる。

 たとえば登場人物たちが皆抱えていた「中年の危機」問題は結局は解決されないままだ。凡庸な映画なら、マット・デイモンに離れて暮らす娘がいて仲が良くないものの、ジョーダンとの契約と並行しながら問題を解決していき、最後は契約もできてみんな仲良くなってめでたしめでたしになりそうだが、この映画はそうじゃない。「理想」や「理念」が劇的に達成されたとて、解決されない現実的な問題はたくさんある。ナイキが賃金の安い台湾や韓国で靴を製造していることにも触れられているのもそうだろう。

 「アメリカン・ドリーム」の物語がもつ力をこの映画は信じている。それはソニーの最後のスピーチからもよく伝わってくる。と同時に、「アメリカン・ドリーム」だけでは掬い上げられないものたちのこともちゃんと視界に入っている。そういった忘れ去られがちなものたちへの憧憬と、1984年という時代への郷愁が綺麗に重ねられているからこそ、見終わったときになんだか少し寂しい気持ちになるのかもしれない。

 

執着と信頼は紙一重〜『シン・仮面ライダー』感想(ネタバレあり)

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 『シン・仮面ライダー』には、何かしら誰かしらへの執着を抱えている人、執着を全く持っていない人、あるいは執着を抱えていたけど手放さそうとしている人が登場する。主人公の本郷猛(池松壮亮)は警察官だった父親を亡くした過去から、大切な人を守ることと、そのための力に執着している。緑川ルリ子(浜辺美波)は他人を信用せず、自分の考えと行動によって目標を達成しようとしており、その兄緑川イチロー森山未來)は亡くなった母に執着していた過去があり、今は全人類を執着から逃れさせるためになにやら物騒な計画を企てている。

 本郷は父親を守れなかった代わりにルリ子を守ろうとするわけだけど、結局守ることはできない。そこで出会うのが一匹狼の一文字隼人(柄本佑)で、バッタの改造人間という境遇や、正義を信じる心を持つ者同士のつながりが信頼を生み、「誰かを守らなければならない」という強迫観念にも似た執着からは生まれなかった力を本郷は発揮することができる。このあたりの1号&2号ライダーのバディ感が最高で、若干ねっちょりしてるけど生真面目な池松1号と、さっぱり爽やかだけどチャラい雰囲気の柄本2号が相性抜群。そら「信頼」も生まれますわなと。

 一方ルリ子も最初は本郷を信頼に足る他者としては見ていないものの、行動を共にするうちに彼を信頼し、彼女の目標を託すに至る。家族がクソ野郎ばかりでいまいち誰かに身を任せることができなかった人生で、不器用だけど誠実な人間が現れて「この人なら信じても良いんだ」と思えた時の感動たるや。ただ、「お前妹寝たのか?」「僕とルリ子さんは恋愛じゃない」というセリフでしか2人の関係を描き切れない(と考えている)のは悪い意味で古臭いなと。そんなセリフなくてもわかるよ。

 イチローも執着に苦しんだ過去があるからこそ、まどろっこしい人間同士のつながりゼロ、味もしゃしゃりもないハビタット世界に行こうとするけど、妹であるルリ子からの説得や、似た過去とトラウマを持つ本郷とのつながり(他人のヘルメットをかぶること≒エンパシー)を経て、人間同士のつながりを回復する。

 『シン・仮面ライダー』では、執着と信頼をどちらも人間らしい感情としつつ、ネガティブな結果を生むリスクがある「執着」に身を浸すより、より健康的なかたちのつながりである「信頼」を作っていこう、みたいなことを描いているのだと思う。人間が生きていく上でどうにもまとわりついてくる「執着」がボディホラー的なイメージでとても身体的に描かれる一方(本郷が自分の姿を鏡で初めて見るシーンなんかまんまそれ)、「信頼」が肉体を通さずに交わすことができる精神的な繋がりとしているのもおもしろい。かといって肉体をなくしたハビタット世界には信頼はなく、「信頼」が存在するには感情が必要、みたいなところも良い。

 みたいなことつらつら考えていたものの、はたしてこれは映画からちゃんと読み取れることなのか、それとも自分が勝手に役者の演技や存在感から想像したストーリーなのか、いまいち自信がない。思い返せばそれぞれのキャラクター造形、掘り下げの部分は全然足りてない気もするのだが、後味は良いので問題はないだろう。また、上に書いた3人以外にも執着をもっているキャラがいて、それはルリルリに執着するハチオーグ/ヒロミ(西野七瀬)である。彼女は蜂の組織を模したような奴隷制をもって世界を支配しようとしている一方、組織時代の友人だったルリ子への執着も見せている。ハチオーグの独特の魅力も相まってとても可能性を感じる描写なのだが、監督が特に興味がないのかわりとサラッと流されており、気になるところである。今はサソリオーグのスピンオフが見たくなっています。

 

【3/18-25】「絶望チョコフォンデュ」日向坂46ダイアリー#37

 

 3月18日から25日までに放送された日向坂46出演番組や出来事の感想です。ひなあいのリアクションチェックにうっすらモヤモヤした話と、「信頼できない語り手」齊藤京子の話です。

 

  • 『日向坂で会いましょう』(3/19)
  • 『キョコロヒー』(3/20)
  • 『レコメン』(3/21)
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【3/12-18】「私はこれからやっていくんだ」日向坂ダイアリー#36

 

 3月12日から18日までに放送された日向坂46出演番組や出来事の感想です。ひなあいとSHOWROOMにおける石塚瑶季の振る舞いに現代におけるアイドル像を見ました。

 

  • 『日向坂46『One choice』ティザー映像』(3/15)
  • 『日向坂で会いましょう』(3/12)
  • 『石塚瑶季SHOWROOM』(3/17)
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クィアネス、セルフケア、万葉集~宮田愛萌『きらきらし』感想

 

 宮田愛萌の初小説集『きらきらし』を読んだ。日向坂46を先日卒業した彼女が初めて出す小説集で、大学時代に研究していた万葉集の和歌から着想を得た短編が5本収録されている。そのほか、奈良で撮影した写真や、日向坂の同期である2期生を詠んだ和歌リーフレットなどもついている。全編クィアネスと物語への信頼に満ちていて、とてもおもしろかった。以下短編ごとの感想。

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