日向坂46ドキュメンタリー映画第2弾を見ても変わらなかったもの~『希望と絶望 その涙を誰も知らない』感想(ネタバレあり)

 日向坂46ドキュメンタリー映画第2弾『希望と絶望 その涙を誰も知らない』を観てきた。僕は日向坂46のファンであると自覚したのが今年の2月下旬というかなり新参のファンである。自覚したころには東京ドームでのひな誕祭開催が決まっていた。前作『3年目のデビュー』や『セルフDocumentary of 日向坂46』など過去の映像で観れるものはある程度見たが、当然まだまだ知らないことは沢山あるだろう。そんな立場から、この作品を観てあくまで自分が考えたり感じたことを書いてみる。

 

 まず映画を観終わった後の率直な感触から言うと、自分の日向坂に対する考えや感じ方は、この映画を観る前と後でほとんど変わらなかった。そして、これは良いことですらあると思う。画面で躍動し、苦しむメンバーたちへの親しみと尊敬の念、画面に映るものも映らないものも含めた「運営」と彼らが動かすシステムへの批判、そしてそのシステムに多かれ少なかれ加担している自分自身への嫌悪感。心の中にあるものの構成は大きく変わらなかったが、その解像度は上がったと思うし、なにより鑑賞後も日向坂46を見続けたいと思えている。

 

 『希望と絶望』に「ストーリー」は希薄であると思う。『3年目のデビュー』に収められていた、改名、シングルデビュー、新メンバーの加入、卒業といった特別な出来事が今作にはなく、グループがコロナ禍ながら成長していき、個人での仕事が増えながらも全体での稼働も続けなければいけない、いわば新しい日常(この言葉を使うとコロナ禍それ自体ともオーバーラップする)における苦悩がメインになっている———渡邉美穂の卒業は描かれるものの、東京ドーム公演を達成したグループの開かれた未来と並べられているため、「グループ全体における苦い経験」のような位置づけだった『3年目のデビュー』のそれとは質が違うと思う。『3年目のデビュー』でもデビュー前後での仕事量の増加やグループの雰囲気の変化は描かれていたが、今作ではその状況がさらに加速している。常に忙しい状況が当たり前になったうえで、行われるライブやツアーでのパフォーマンスをどう仕上げていくかの課題にメンバーは直面する。

 そして、この映画の結末にまで話を飛ばすと、日向坂46として一つの目標であった東京ドーム公演は成功に終わったと言えるだろう。僕自身も配信で両日とも見て大いに心動かされたし、良いライブだと思った。ドキュメンタリーで流れるライブ後のメンバーの様子も総じて清々しく明るい表情だった。

 ここで僕がこの映画の良いところだと思うのは、3回目のひな誕祭の成功に至るまでのW-KEYAKI FESやアリーナツアーでの苦しみを「必要だった」と描いていない点だ。それぞれの活動を「壁」や「試練」などといった陳腐な比喩で飾り立てはしない。どちらも「それでも日常は続いていく」と言わんばかりに、課題はキレイにまとまりきることなく、「どうすればいいのだろう」とフェイドアウトしていく。舞台裏の苦しみや舞台上の課題が解決されようとされまいと時間は過ぎるし次の仕事はやってくる。ファンだってグループが取り組む次の活動を楽しみにしている。むしろそんな状況でもベストを尽くして表現し続けるプロ意識みたいなものすら感じられるかもしれない。これらが佐々木久美の「美談にして物語として消化してほしくない」という発言に影響されているのかはわからない。しかし、監督もわざとらしい美談を避けたというような旨を発言しているし、前作に比べてナレーションなどの演出も控えめだったように思えた。なので、ある程度意図した結果ではあるのだろう。このように、人の手によって起伏を作るのではなく、起きた事を淡々と並べようとする描き方は個人的にも好ましかったし、『希望と絶望』の「ストーリー」の希薄さは良い効果をもたらしていると思う。

 

 だがしかし、上記のように演出で何かを生み出そうとする姿勢は希薄に思えたものの、流れる映像自体には、より刺激的でセンセーショナルさを求めようとする姿勢が感じられた。メンバーがうつむき、倒れ、涙を流す姿が各パートで何度も何度も映し出される。確かにそれらの映像はこれまでファンが目にしてこなかったものとして価値があるのかもしれないし、そこにある苦悩もひとつの真実ではあるだろう。実際に苦しかったのだろうし、演技をしているわけでもないだろう。

 だが、そこにある苦しみが全てではないとも思う。メンバーは運営から押し付けられた仕事にただ苦しんでいたわけではないだろう。そこに本来あったと思われる、彼女たちが主体的に何かを表現し、選び取ろうとする瞬間が見過ごされていると個人的には感じた(アリーナツアーでメンバー同士が相談し、「大人」に伝えた結果セトリが変更されたシーンはその例外である)。

 もちろんここで言いたいのは、メンバーの苦しみは自分の選択の結果なのだから仕方ないなんてことではない。そうではなく、メンバーの苦しみや感情にフォーカスし、被害者化に傾いてしまったばかりに、彼女たちの主体性を蔑ろにしているのではいかということだ。多かれ少なかれ、我々消費者はアイドルを応援することでアイドルたちの主体性を無視している。どんなに努力してもゼロにはならない。でも、そのなかでより真っ当なやり方を考え、選ぶことはできるはずだし、そうするべきだ。『希望と絶望』にはそのあたりの姿勢が欠けているのではないかと思うし、一ファンとしてそこはもっともっと求めていきたい。

 

 この映画にはストーリーがないと書いた。一応軸は東京ドーム公演への道のりということになるが、最初から2022年3月を目指していたわけでもないので、どうしても間延びしてしまう。そのなかで映画全体に通底していたのは「日向坂が好き」という感情だ。映画の随所で、様々なメンバーからこの言葉が聞こえる。そんな様子を見ながら、結局自分が日向坂を好きな理由はここにあるのかもしれないとふと思った。約4ヵ月前に日向坂46を好きになってから、なぜ自分はこのグループが好きなのかと何度も考えたが、その問いに対するスッキリとした答えはいまだにわからない。でも、自分は「日向坂46というグループが好きだ」と一切照れずに言ってのけるメンバーからものすごく大きなものを貰っている気がする。それは今のところ何にも代えがたいものだ。端的でわかりやすい答えではないかもしれないが、このようなメンバーの言葉や行動、関係こそに僕は惹きつけられているのだ。

 

 映画の最後、佐々木久美がインタビューで「日向坂らしさ」について答える。今自分たちは道のない所をかきわけながら歩いているような感覚だと。ただ、むしろこれ自体が日向坂らしさなのではないか、初めから日向坂らしさで舗装された道があるのではなく道なき道をかきわけながら歩く姿こそが。この言葉に自分も激しく同意する。そういう意味で、劇中運営の中年男性からメンバーに発せられる「昔の方が良かった」「がむしゃらさが足りない」なんていう「日向坂らしさ」の押し付けはお門違いも甚だしい。メンバーが「日向坂らしさ」の再現を目指して行動するのではない、メンバーの行動それ自体が「日向坂らしさ」なのだと思う。だから、これから新メンバーが加入して、また別の卒業生が出たとしても、日向坂46は日向坂らしく在り続けるだろうと思う。

 

 最初の方に書いたとおり、この文章は映画の感想であると同時に今まで自分が考えていたことでもある。日向坂が好きな気持ち、日向坂をめぐる環境に対して批判的な気持ち。僕が自分の生活にひいひい言いながらも日向坂46は活動をつづけ、どんどん歩みを進めていく。自分にはメンバーたちが表現するものをただ受け止めることしかできないかもしれない。でも、どう受け止めるかは僕の自由だし、だからこそ同時に責任も生じる。そのことと向き合いながら、ひとまずしばらくの間は日向坂46を応援し続けようと思う。