『ブラックパンサー ワカンダ・フォーエバー』感想(ネタバレあり)

 

 『ブラックパンサー ワカンダ・フォーエバー』を見てきたので、ネタバレありの感想を。

 

 喪失を経験した人が経る長い長いプロセスを省かず、ある意味当たり前の悩みや葛藤をことを当たり前に描き切るのがまずよかった。多くの人が減点方式で見てしまうようなテーマに関してほとんど減点していない。それは要するにめちゃくちゃ丁寧で真摯だということ。

 ティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)をCGで蘇生させるのは論外としても、実は残してた手紙などもなく(強いて言えばエムバクがシュリを助けるように言われてた、とか?)、あくまでフッテージだけ、「あったもの」だけでやってるのにグッときた。子どもに関してもナキアのエンドゲーム不在の辻褄があったりして、そんなに嫌な感じじゃない。ラモンだの言う通り彼は死んでもどこかに行ってしまったわけではなく、かつてあったものは今もあるから、わざわざ後出しする必要ないんだろうな。そういう意味で、ティチャラの死についての話じゃなくて、ティチャラの死と向き合う人々の話、というか向き合うとか受け入れるよりもむしろティチャラの死と「付き合って生きていく」人の話になってるのがいい。あくまで生者の話。

 そういう意味ではネイモアも(最後にシュリがそうしたように一つの区切りはつけているものの)現在進行形で母親の死と付き合っている人で、単にスーパーパワーを持った大国の長という以上にブラックパンサーの似姿、鏡像。植民地主義をめぐる彼の西欧諸国及び世界全体への怒りがワカンダの孤立主義的な政治姿勢を揺り動かし、ひいてはシュリの喪失の経験やリリへのシンパシーへとつながっていくあたりが「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを思い出したりした(これはフェミニズムのスローガンだけど)。

 なので王政の国同士の政治劇としてもスリリングというか、君主の個人的な感情と国家の命運がごっちゃになるからこそ戦争が起こったり起こりかけたりするんだけど、君主が自らの経験をより多くの人々の経験へと敷衍できるからこそ(シュリがネイモアに槍を突き立てながらのフラッシュバック、個人の体験が人々の体験へ、そしてタロカンからネイモアへ)、シュリとネイモア二人ともがそれぞれの国の民のために一線を引き、できるだけ自らの感情を疎かにしないままで妥協点を探ろうとするのがとても大人な決着だし、映画全体のテーマとしてもバッチリ合っている。

 ラモンダ/アンジェラ・バセットがとにかくすごくて、「私が全てを捧げてないとでも?」のセリフの説得力たるや。Everybody hurts 的な話を陳腐にならず表現するのって難しいと思うんだけど、ここでは納得せざるを得ない。

 タロカンの人々の雰囲気とかがアバターっぽいのに加えて、最後の海戦シーンはタイタニックっぽさもあったのでほぼキャメロン。

 ここどうかなーと思ったポイントは、まずシュリ&リリ奪還が簡単すぎる。いくらなんでもササっと入って非戦闘員っぽい侍女みたいな人を2人倒しただけで帰れるのはちょっと…あと、シュリとリリの関係性も特別に変なことそしているわけでもないけどうまく消化しきれてもないと思う。