M-1グランプリ2022(ウエストランドと『ファイト・クラブ』、ダイヤモンドとキュウの「不自然さ」、ヨネダ2000≒チェリオの炭酸)

 

 昨日12月18日にM-1グランプリを見たのだけど、リアルタイムで見れなかったり見終わった後もバタバタしてたりで感想を文字にしてなかったのでまとめて書きます。内容はタイトル通りです。

 

 まず優勝したウエストランドの漫才について。あれは井口の語る悪口や偏見そのものではなく、ところ構わず何かに悪態をつかずにはいられない彼という人間がおもしろいのだという評も確かに頷けるし、あるなしクイズという枠がありながらゲームのルールを守ろうとしない井口の様子から彼が「間違っている」とわかるような構成になっているという指摘もその通りだと思うけど、それでもやはりあの悪口自体が及ぼす影響や、あの漫才がある種のバックラッシュに利用される/加担することを考えると手放しで褒め称えることはできない。「偏見と悪意を撒き散らす人」を戯画化した表現が優れているあまり、表現から「偏見と悪意」そのものだけを取り出しても機能してしまう状況にどう対処すべきなのか。みたいなことを考えててこれ『ファイト・クラブ』みたいな漫才だなと思った

 ウエストランドの漫才を評するときによく「『傷つけない笑い』からの決別」という文脈で語られているのを目にする。確かに彼らがそこから逸脱した笑いを起こしていたのは確かだと思う。お笑いを、漫才をしている芸人本人と自分のようなお笑いファンとの間にどのくらい感覚の違いがあるのかはっきりわからなくて、その度合いについては個人によって感じ方が変わるのだろうけど、「傷つけない笑い」がひとつの規範化しつつある(あった)のはそうだと思う。そのなかで、規範を揺り動かすような漫才が大きな笑いを生んで、評価されるのは必然だしあるべきことだとも思う。だけど、この流れが「政治的正しさ」そのものへの攻撃になったり、単なる加害欲やインセルルサンチマンの発露を批評や注釈なしに後押しすることになるととても怖い。正直、自分は来年のお笑いの流れにびくびくしている。この漫才が優勝したことによって来年のM-1運営が何を惹句とするのか、どんなお笑いが権威を持つのか。

 

 大会前はダイヤモンドとキュウの漫才にとても期待していたのだが、2組ともあまり点数が伸びなかった。今回この2組を見て感じたのは、両者とも「不自然な」漫才であるということだ。会話を繰り広げる二人の間やテンポが概ね一定で、声のトーンにも抑揚があまりない。一定のリズムでテーマに沿った言葉が並べられ、一定のツッコミ(?)が添えられていく。となると、我々はこの漫才を工的で「不自然に」感じてしまうわけだが、ここでふと、他の漫才だって十分「不自然」じゃないか?と思う。

 人は会話するときダイヤモンドやキュウみたいに一定のリズムで話すわけではないけど、かといってさや香みたいに極限まで切り詰められて気持ちよく笑えるようにチューニングされた間で会話をしているわけでもない。一見「そういうものだ」とすんなり受け入れている漫才も、隅々までめちゃくちゃ入念に手が入れられていることは想像に難くない。そういう意味で、ダイヤモンドとキュウは漫才がもつ演劇性みたいなものに意識的なのではないだろうか。ああやって「人工的な」間とテンポの漫才をすることによって、我々が普段「これが普通だ」と考えている漫才の「不自然さ」を逆照射しているというか。

 このように、ダイヤモンドとキュウは内容だけでなく形式の面からも従来の漫才を脱臼させるような試みをしていると思うのだが、それ自体が必ずしも直接的に笑いにつながるわけではないかもしれないのが難しい所だ。「ジワジワと笑えて来る」みたいなところはあるにせよ、少なくない観客が求めているであろう「何も考えずに笑える」漫才にはなりにくいのかもしれない。

 

 というところで、もう一組とてもおもしろかったのはヨネダ2000だ。ゼロ年代、あるいはテン年代らしいと言っていいのだろうか、サンプリング感覚にあふれた漫才でポップカルチャーを消化しつつひたすら耳心地が良くて、ダイヤモンドとキュウとは違って「何も考えずに笑える」漫才なのではないかと思う。

 今「何も考えずに笑える」といったばかりなのだけど、むしろ「どこがおもしろいのか考えてもよく分からない」の方が合ってるかもしれない。言語化はできないけど、見ているうちに彼女たちが笑わせたいと思ったところで笑わされている。内容自体はとにかくナンセンスで筋も必然性もないのに、そのリズムで笑っている。とても身体的に笑っている。そういう意味では、立川志らくが指摘していたようにランジャタイをほうふつとさせる。ランジャタイもその漫才の内容を説明することは実質不可能だけど、見ているうちに体ごと笑わされるような感覚に陥る。とにかくテンポとリズムが「人が笑うテンポ」と「人が笑うリズム」で徹底されているのだ(少し話はそれるが、立川志らくがヨネダ2000に対して「女の武器を使っていない」「女版ランジャタイ」といったことには怒っている。「女の武器」ってなんだ、百歩譲ってそんなものがあるとしてなんで使ってなかったら褒めの対象なんだ。というか今さっき自分で「女の武器を使ってない」って言ったくせに「女版」ってつけんなよ。女性である必然性がないネタなのに「女版」ってつけちゃうのがミソジニーなんだよ。シンプルに「ランジャタイと似てるね」で良いんだよ)。

 ヨネダ2000はチェリオの自販機に売ってる飲み物みたいな「何味かはわからないけどとにかく甘くておいしいし、炭酸強くてのど越し最高」って感じがする。そういう飲み物が好きです。