『ラストナイト・イン・ソーホー』感想(ネタバレあり)

 エドガー・ライト監督の新作『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』を観てきた。

 

 60年代文化が大好きで、デザイナーになる夢を持つエロイーズ(トーマシン・マッケンジー)は、デザインの勉強のためロンドンにやってくる。彼女はソーホーにある古い家で下宿し始めるが、その部屋で眠ると彼女は60年代ロンドンに迷い込み、歌手になる夢を持ったサンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)の人生を追体験することとなる。しかし、サンディが体験しエロイーズの目に映るのは、彼女が憧れていたはずの60年代ロンドンとは違った姿で…

 

 エドガー・ライト自身、自分が生まれる前の文化が大好きらしく、『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』もそれらへの愛で溢れている。その大きすぎる愛と、だからといって無批判にそれらを消費したり耽溺することへの自戒を、シスターフッド/フェミニズム的なテーマで撮ろうとした感じの映画と言えるだろう。

 そこはさすがにエドガー・ライトなので、映像とマッチした曲の使い方はよくできているし、エロイーズとサンディ、現代と60年代がネオンのもとで混じり合う映像表現も見どころがたくさんあって楽しい。自分が生まれる前の時代への愛を相対化しようとする姿勢も個人的に共感できるものだった。

 しかし、肝心の主役二人をめぐる「フェミニズム」的な表現(とそれに伴うマジョリティ男性としての自戒)の部分が良くできているとは思えず、というか失敗しているとすら感じたので、素直に楽しみ切れなかった。下にその詳しい理由を述べる。

 

(以下ネタバレあり)

 

 エロイーズとサンディ、現代と60年代それぞれで夢を追っている若い女性の経験や感情がロンドンという街の記憶を縦糸としてつながるというアイデアはすごく良いし、そこにフェミニズム的視点が入るのはごく自然なことだと思う。

 

 だけどその上でまず指摘したいのは、エロイーズの同級生の女性たちがテンプレ「女の敵は女」だったこと。なぜこんな描写がこの時代に、しかも「シスターフッド」を曲がりなりにも志向しているであろう映画でまかり通っているのか、意味が分からない。「最初はステレオタイプに見えるけどあとから巻き返す系」かと思いきやそうでもなく、彼女たちの存在や性格がとくに話に貢献しているとも思えない(下宿する理由なら「60年代に憧れてずっとソーホーに住みたいと思ってた」でいいし、疎外感が必要なら都会と田舎のギャップだけで事足りるだろうから、ことさら「イジワル」にしなくても良かった)。

 

 女性が感じる男性の眼差し、もっというと性的な暴力性の映像化についても思うところがある。男たちをのっぺらぼうにすることで、サンディとエロイーズをめぐる性暴力が個人の問題ではなく男性全体の問題なのだと示すのもわかるし、幽霊っぽいビジュアルで、性被害の苦しみは行為自体が終わってからも被害者に付きまとうのだとしてるのもわかる。だけど、この映画で結局“ツケ”を払うのは女性なのである。

 自分の中に根付いてしまった暴力と罪のせいで、物語において最後は死ぬしかない人物を登場させるのは理解できるんだけど、それを(あたかも男性とトキシック・マスキュリニティみたいに)女性とミサンドリーでやっちゃうのが違うよなと思う。トキシック・マスキュリニティとミサンドリーはもちろん、ミソジニーミサンドリーだって必ずしも対称じゃない。サンディの行いを悲劇にしたいのか、ピカレスクものにしたいのか。シスターフッドとの接続も甘く、サンディをどうしたかったのかがわからなかった。サンディの内面や意思というよりも、アニャ・テイラー=ジョイの魅力と物語のツイストを優先した結果こうなった、と自分には感じられた。

 また、「消費する主体」であるところの男性を徹底的に罰することによるマジョリティとして自省が含まれているように見える…のだけど、「罰」としての暴力を振るうのが女性であるサンディなのはけっこうタチが悪い気がした。それから、「罰」自体も、若い女性がもつナイフによる血まみれの死という映画としての映りが良い「罰」であって、それは本来男性がするべき時間をかけた内省とは程遠いものではないだろうか。さらに、罰されるべき悪い男たちの対極として、とてつもなく都合のいいマジカルな黒人を配しており、しかもそこに恋愛が絡むのは雑過ぎ&安直すぎでどうかと思う。

 

 あと、エロイーズの母親が精神を病んで自殺したって設定は要るのかな?必要なのはエロイーズがもともと「見えやすい」体質だって設定だけだろう。そもそも母親が死んでいる必要も感じなかった(彼女もロンドンに「呑みこまれた」人間であるという共通点を強調したかったにしては掘り下げが足りていない)。

 サンディの性被害やショービジネスの裏側の汚い部分の撮り方も、うまく言えないけど全体として変にキレイというかどう映したいのかわからない感じで、あれでよかったのかは疑問。

 

 最後のシーン、エロイーズがデザインした60年代風のドレスを、現代的な髪形や雰囲気のモデルが着用しており、そのあと彼女が見た鏡には母親とサンディの姿がある。これらの描写で、エロイーズが60年代文化と適切な距離をとれるようになりつつ、母親やサンディなど時代が葬ってきたものたちの記憶(およびエロイーズ自身の”gift”)を受け入れたことがわかる。このオチはすごく健全で良いと思うし、これこそがエドガー・ライト描きたかったものなのだってことはわかるんだけど…

 エドガー・ライトが過去作で描いてきた、大好きなもの(仲のいい友達とのぬるま湯のような生活や地元のパブなど)への愛憎入り混じった感情とそこへの折り合いのつけ方はすごく好きで、『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』でも基本は同じ事を描きたかったのだと思う。

 でも、そこに「女性であるが故の苦しみと男性としての自省」を取り入れようとしたことで、彼の「弱み」みたいなものがドバっと出ちゃった感がある。それは女性の描写であったり映画全体の「白さ」であったり(彼の「女性観」が素朴な形で表れてそのユーモアセンスと劇的にマッチしたのがスコット・ピルグリムで、凡庸なキャラになってしまったのがベイビー・ドライバーだと思ってる)。

 共同脚本に女性のクリスティ・ウィルソン=ケアンズがいて、彼が持ちあわせていない視点を取り入れようとしたことはうかがえるが、にもかかわらずこのような内容になったことは残念。しかし、今回批判した点においてもそれ以外でも、次回作はより良い映画になることを期待している。