イメージとしての「さかなクン」〜『さかなのこ』感想(ネタバレあり)

 

 沖田修一監督、のん主演『さかなのこ』を見てきた。さかなクンの自伝の映画化で、魚が大好きなミー坊が歩む「普通」じゃない人生をオフビートなユーモアたっぷりに愛おしく描く。出てくるキャラクターがみんな魅力的で、撮影も素晴らしく、とてもおもしろかった。と同時に、とても変わった映画だとも思ったので以下ネタバレありの感想を。

 


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 この映画では、主人公であるミー坊のモデルであり原作者のさかなクンの生き方や存在そのもののイメージを分析しながらとてもうまく利用していると思う。「何かを好きでい続ける」ことを明るく楽天的に描いているのに、そこにある居心地の悪い側面までもカメラに収めている。

 

 さかなクンが演じるギョギョおじさん(さかなクン)は、ミー坊と同じく魚が大好きだけど、就職に失敗して(「普通」のことができなくて)街の変わり者として過ごしている。そんな人が「魚好き」としてのミー坊の背中を押し、バトン渡す役割を全うして退場するのは、あくまで「さかなクン」は「さかなクン」というイメージを纏った存在であることを示しているのではないだろうか。よく「さかなクンの本体はあの帽子で、下の人間は操られている」みたいな冗談が言われるが、まさにその通りのことを描いている。我々は普段メディアを通して目にするさかなクンから生活感というか生々しい「人間的」な雰囲気を受け取ることがあまりないと思うのだが、それを逆手に取ったような表現だろう。

 このような、さかなクンおよびミー坊に「普通」の「人間らしさ」が欠けていることに関しては、「さかなのこ」というタイトルや、バイナリーなジェンダー規範縛られない(「男か女かはどっちでもいい」)キャスティングなどによっても表されている。

 

 勉強しないとお魚博士になれないとヒヨに諭されたり、ギョギョおじさんとの交流があったのにも関わらず、ミー坊がまったく勉強せずに(できずに)そのままフラフラと東京に行ってしまうあたりは妙にリアルだ。そこから就いた仕事もうまくこなせず行き詰まってしまうのもなかなかシビアだった。

 モモコと娘が転がり込んできたことにより、規範的でない(「普通」でない)家族が形成される。これをきっかけとしてミー坊に自覚が芽生え、家族のために責任を果たさなくてはとそれまでこなせてなかった「普通」をなんとかこなそうと動き出したところで、「ミー坊のそんな姿(好きな魚を諦めて家族のために奉仕する)を見たくない」とばかりに2人が去ってしまうシーンはとても悲しかった。

 ミー坊には「普通」がわからないのに、無意識的に「普通」に接近すると今度は「ミー坊らしくない」と思わられるのはかなり辛い。ここでは「何かを好き」でいることをアイデンティティとしてみなされてしまう人の苦悩、「何かを好きで居続ける」ことに縛られてしまう人生が描かれている。「さかなクン」のイメージを利用して「何かを好きでい続ける」ことの継承をテーマにした映画で、このような暗い側面を描くのはすごいと思う。

 でも、2人が去ったことを知ったミー坊が、コレしか残ってないとばかりに大好きな魚の絵を描くシーンもまためちゃくちゃ良かった。そこからの展開では、直前で描かれた暗い面と裏表である「何かを好きでい続ける」ことの良い効用がとてもパワフルかつファンタジックに描かれている。

 

 最後、ハコフグの帽子を被りさまざまな魚の絵が描かれた白衣を着たミー坊は海の中に飛び込む。そこで魚好きとしての原体験であるマグロを再び目にし、ミー坊は魚になる。このラストシーンによって、それまで描かれてきた出来事が誰の見ている夢なのか、誰が思い出してる過去なのか曖昧になっていく。胡蝶の夢だという感想を見たけど、まさにそんな感じだ。『さかなのこ』は「何かを好きでい続ける」ことについてのお伽噺なのかもしれない。